総力戦研究所は、1940年9月30日に内閣総理大臣直轄の研究機関として設立されました。その主な目的は、対アメリカを想定した国家総力戦に関する調査・研究、そして若手エリートの教育・訓練でした。
研究所の設立背景には、当時の日本が直面していた複雑な国際情勢がありました。陸軍の強い要望で構想されましたが、軍事面だけでなく思想、政治、経済など多角的な視点からの研究が必要とされたため、内閣総理大臣の管轄下に置かれることになったのです。
1941年4月、第一期研究生として35名が入所しました。その内訳は文官22人、武官5人、民間人8人と多岐にわたり、星航一のモデルとなった三淵乾太郎もその一人でした。彼らは当時の日本のエリートであり、国家の将来を担う人材として選ばれたのです。
総力戦研究所では、1941年7月に「第1回総力戦机上演習計画」を発表し、日米開戦を想定したシミュレーションを行いました。研究生たちは疑似内閣を組織し、様々な角度から戦争の可能性を検討しました。
星航一のモデルである三淵乾太郎は、この疑似内閣で「司法大臣」兼「法制局長官」という重要な役職を担当しました。彼らは工業力、資材、食糧、燃料の自給率、運送・補給経路の確保、同盟国との連携など、具体的なデータに基づいて徹底的な分析を行いました。
その結果、彼らが出した結論は衝撃的なものでした。「開戦直後の緒戦は勝利が見込めるが、その後長期戦になることは必至であり、今の日本にはそれに耐えうる国力がなく敗北は避けられない」というものだったのです。
この予測は、1941年8月の「第1回総力戦机上演習総合研究会」で、近衛文麿首相や東条英機陸相らに報告されました。しかし、政府の方針を変えるには至りませんでした。
星航一が抱えた深い罪の意識は、この総力戦研究所での経験に根ざしています。彼らは日本の敗戦を予測しながらも、それを阻止することができなかったのです。
東条英機は研究結果を「机上の空論」として退け、さらに「この机上演習の経緯を軽はずみに口外してはならない」と研究生たちに口止めをしました。その約3ヶ月後、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入したのです。
結果として、原爆投下を除けば、戦況は彼らの予測通りに進みました。星航一の「日本が敗戦することを知っていたのに何もできなかった」という言葉は、この経験から来ているのです。彼は自分の無力さを罪として捉え、「その罪を僕は誰からも裁かれることなく生きている」と苦しんでいたのでした。
星航一のモデルとなった三淵乾太郎は、戦後も法曹界で活躍しました。彼は1950年に最高裁判所長官に就任し、日本の司法制度の発展に大きく貢献しました。
三淵は、戦時中の経験を糧に、平和主義と法の支配を重視する姿勢を貫きました。彼の下で最高裁は、憲法9条の解釈や基本的人権の保障に関する重要な判決を下しています。
しかし、三淵も星航一同様、戦時中の経験から来る罪の意識を完全に払拭することはできなかったと言われています。彼の司法判断には、常に戦争の悲惨さと平和の尊さが反映されていたのです。
三淵乾太郎が関わった重要な判決の一つ、砂川事件の詳細が掲載されています。
星航一の物語は、単なる歴史の一コマではありません。それは現代社会にも通じる重要な教訓を含んでいます。
これらの教訓は、現代の私たちにも深く考えさせるものがあります。技術の進歩や社会の変化に伴い、新たな形の「総力戦」が起こる可能性も否定できません。星航一の経験を通じて、私たちは過去の教訓を未来に活かす重要性を学ぶことができるのです。
星航一役を演じた岡田将生さんが、役作りや作品への思いを語っています。