三淵嘉子は、1914年11月13日にシンガポールで生まれました。父・武藤貞雄は東京帝国大学法科を卒業したエリートで、台湾銀行に勤務していました。母・武藤ノブとともにシンガポールに赴任していた際に嘉子が誕生し、その後ニューヨークへの転勤を経て、1920年に東京へ移り住みました。
嘉子の名前の「嘉」の字は、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来しているそうです。これは、彼女の国際的な生い立ちを象徴しているといえるでしょう。
嘉子は1932年に明治大学法学部女子部に入学しました。当時は女性が法律を学ぶことすら珍しい時代でしたが、彼女は困難を乗り越えて1935年に卒業しました。その後、1938年に高等試験司法科に合格し、日本初の女性弁護士となりました。
この時代、女性が弁護士になることは法律で禁止されていませんでしたが、社会的な偏見や障壁が多く存在していました。嘉子はこれらの困難に立ち向かい、道を切り開いていったのです。
戦後、1949年に嘉子は女性初の裁判官(判事補)として東京地方裁判所に任官しました。その後、1963年には広島・長崎の原爆被害者訴訟で「原爆投下は国際法違反」という画期的な判断を下しています。
1972年には女性初の家庭裁判所長に就任し、「家裁は人間を取り扱うところ。事件を扱うところではない」という言葉を残しました。この言葉は、法律の適用だけでなく、人間性を重視する彼女の姿勢を表しています。
三淵嘉子は、法律の専門家としての能力だけでなく、人間性豊かな人物としても知られていました。彼女は常に弱者の立場に立ち、公平な判断を心がけていたといいます。
また、女性の社会進出や平等に関しても強い信念を持っていました。彼女は後輩たちに向けて「エリート意識を持たないでほしい」と語り、謙虚さと努力の大切さを説いています。
三淵嘉子の功績は、現代の日本社会にも大きな影響を与えています。彼女が切り開いた道によって、多くの女性が法曹界で活躍する機会を得ることができました。
2024年現在、日本の弁護士全体に占める女性の割合は約20%に達しています。また、裁判官や検察官においても女性の割合が増加しており、嘉子の遺志は着実に引き継がれているといえるでしょう。
しかし、法曹界における男女平等はまだ完全には達成されていません。管理職や重要なポストにおける女性の割合は依然として低く、さらなる改善が求められています。
三淵嘉子の生涯は、困難に立ち向かい、社会の変革を成し遂げた一人の女性の物語です。彼女の姿勢は、現代を生きる私たちに、勇気と希望を与えてくれるのではないでしょうか。
三淵嘉子が日本初の女性弁護士となった1938年、同時に久米愛と深尾須磨子も弁護士資格を取得しました。この3名が日本初の女性弁護士として知られています。
久米愛は東京女子大学を卒業後、明治大学法学部に編入学し、三淵嘉子とともに学びました。深尾須磨子は日本女子大学を卒業後、中央大学法学部に進学しています。
これら3名の女性たちは、それぞれ異なる経歴を持ちながらも、共通の目標に向かって努力を重ねました。彼女たちの挑戦は、当時の社会に大きな衝撃を与えたと言えるでしょう。
1933年の弁護士法改正が、女性が弁護士になる道を開きました。それまでは、民法上の「妻は無能力者」という規定により、女性が弁護士になることは事実上不可能でした。
法改正により、弁護士の資格要件が「帝国臣民にして成年者たること」と変更されたことで、性別に関係なく弁護士になる道が開かれたのです。この法改正は、三淵嘉子たちが弁護士を目指す直接のきっかけとなりました。
法律上の障壁は取り除かれたものの、三淵嘉子たちが直面した社会的な困難は計り知れないものでした。男性中心の法曹界で、彼女たちは常に偏見や差別と戦わなければなりませんでした。
例えば、裁判所や検察庁での実務修習では、女性用の更衣室がなかったり、依頼者から女性弁護士を信用してもらえなかったりと、様々な障壁がありました。しかし、彼女たちはこれらの困難を一つ一つ乗り越えていきました。
三淵嘉子たち日本初の女性弁護士の功績は、後の世代に大きな影響を与えました。彼女たちの挑戦は、多くの女性たちに勇気を与え、法曹界を目指す女性が増加するきっかけとなりました。
現在、日本の法科大学院における女性の割合は約30%に達しており、将来的にはさらに多くの女性法曹が誕生することが期待されています。これは、三淵嘉子たちが切り開いた道が、確実に広がっていることの証と言えるでしょう。
三淵嘉子たち日本初の女性弁護士の挑戦は、単に法曹界だけでなく、日本社会全体の男女平等や女性の社会進出に大きな影響を与えました。彼女たちの勇気ある行動は、現代を生きる私たちに、夢を追い続けることの大切さを教えてくれているのではないでしょうか。