虎に翼 和田芳夫の生涯と三淵嘉子との結婚

朝ドラ『虎に翼』のモデルとなった和田芳夫と三淵嘉子の実話を紹介。書生から始まった二人の出会いと結婚、そして戦争による悲劇的な別れ。和田芳夫の人生から何を学べるでしょうか?

虎に翼 和田芳夫の生涯と結婚

和田芳夫の生涯と三淵嘉子との結婚
📚
書生時代

武藤家で過ごした青年期

💑
三淵嘉子との出会い

武藤家での交流から結婚へ

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戦時中の運命

召集と戦病死

虎に翼 和田芳夫の出身と書生時代

和田芳夫は、香川県丸亀市の出身で、三淵嘉子の父である武藤貞雄の同郷人でした。武藤家では、同郷の学生を書生として受け入れる習慣があり、和田もその一人でした。

 

和田は、武藤家で過ごした書生時代、非常に真面目で優しい性格の持ち主として知られていました。他の書生たちと比べると、おとなしく目立たないタイプでしたが、その誠実さは武藤家の人々に高く評価されていました。

 

書生時代の和田は、昼間は働きながら、夜は明治大学専門部の夜間部で学んでいました。この努力家の姿勢は、後に三淵嘉子の心を掴むことになります。

 

虎に翼 和田芳夫と三淵嘉子の出会いと結婚

和田芳夫と三淵嘉子の出会いは、武藤家での書生時代に遡ります。当時、嘉子は家の中で最も活発な性格で、おとなしい和田とは対照的でした。しかし、二人は互いの良さを認め合い、次第に心を通わせていきました。

 

興味深いことに、二人の結婚は、一般的な恋愛結婚とは少し異なる経緯を辿りました。嘉子が26歳になり、両親が結婚を心配し始めた時、嘉子自身が「和田さんがいい」と告げたのです。これは、武藤家の人々にとって意外な選択でした。

 

1941年(昭和16年)11月、和田芳夫と三淵嘉子は結婚しました。二人の結婚生活は、互いを尊重し合う、理想的なものだったと言われています。

 

虎に翼 和田芳夫の職業と家庭生活

和田芳夫は、大学卒業後、東洋モスリン(後に東洋紡織工業に社名変更)という紡績会社に就職しました。真面目で努力家の和田は、仕事でも高い評価を受けていたようです。

 

結婚後、和田と嘉子は東京・池袋に新居を構え、共働きの生活を始めました。1943年(昭和18年)には長男・芳武が誕生し、幸せな家庭生活を送っていました。

 

しかし、戦時中という厳しい時代背景の中、和田は一時期、肺を患い療養生活を送ることもありました。それでも、家族を支えるために懸命に働き続けた和田の姿勢は、嘉子にとって大きな支えとなりました。

虎に翼 和田芳夫の召集と戦病死

平和な日々は長くは続きませんでした。1944年(昭和19年)、和田芳夫に召集令状が届きます。当初は持病のため兵役を免れていましたが、戦況の悪化に伴い、最終的には召集に応じることになりました。

 

和田は中国に派遣されましたが、そこで病気を再発させてしまいます。上海の病院で終戦を迎えた和田でしたが、帰国の途中で容態が悪化。1946年(昭和21年)5月23日、長崎の陸軍病院で息を引き取りました。

 

悲しいことに、和田の危篤を知らせる連絡が嘉子に届くまでに時間がかかり、最後の別れを交わすことができませんでした。わずか5年の結婚生活でしたが、その間の3年しか一緒に過ごせなかったという事実は、戦争の残酷さを物語っています。

 

国立公文書館デジタルアーカイブ - 戦時中の召集令状に関する資料

虎に翼 和田芳夫の遺志と三淵嘉子への影響

和田芳夫の突然の死は、三淵嘉子に大きな衝撃を与えました。しかし、嘉子は夫の遺志を胸に、シングルマザーとして息子を育てながら、法曹界での活躍を続けました。

 

和田との短い結婚生活で得た経験は、嘉子の法律家としての視点にも影響を与えたと言われています。特に、女性の経済的自立の重要性や、戦争が家族に与える影響について、嘉子は深く考えるようになりました。

 

後年、嘉子が家庭裁判所の設立に関わったり、女性の権利向上に尽力したりしたのも、和田との生活や別れの経験が根底にあったのかもしれません。

 

和田芳夫の生涯は短くとも、その誠実さと家族への愛は、三淵嘉子を通じて日本の法曹界に大きな影響を与えたと言えるでしょう。彼の存在は、朝ドラ『虎に翼』の中で、佐田優三というキャラクターとして生き続けています。